2015年5月28日木曜日

薩摩武家屋敷を巡る 薩摩川内編

清色城跡と入来麓

次なる武家屋敷は薩摩川内市の市街から山あいに入り込んだ、入来麓です。
三大薩摩武家屋敷のうちの一か所という言い方をすることもあるようです。
ここは、出水とはだいぶ趣が違い、山城を護る為の城壁街と言えます。
山城は清色城といいその主は、相模国から鎌倉時代に功績を挙げ褒美としてこの地を与えられ、下向した(失礼な言い方にはなりますが、歴史的にはそのように言われています)渋谷氏で、この地に移って入来院氏を名乗っています。
薩摩武家屋敷とはいっても、どう見ても島津を護る構えでは無く、むしろ薩摩藩内の国人(豪族)として島津やその他の豪族と闘い、時代によって島津の家来になったりまた争ったりという独特の歴史があると思われます。

緑色に示している険しい山の中に山城が点在していました。麓を湾曲して流れる樋脇川を天然の堀と見立て、平地に武家屋敷並びに農地の街区を整備して家来たちを住まわせたのでしょう。城の主を死守する配置ですね。
馬場から登城していく階段。ここは、城から降りてきて馬場での訓練などを睥睨した場所と思われます。階段の上は現在「入来小学校」になっています。こんな学校に通ったら、故郷を愛する人間が育つことでしょう。
右側が馬場の跡地です。薩摩馬が疾走していたことでしょう。
左側は樋脇川から人工的に引き込んだ堀で、船着場の跡があります。
塀を構成する石垣は玉石を組み上げています。馬が通ったであろう街路も湾曲しています。山城に向けて坂道にもなっていて、独特の街区構成。

この武家屋敷群の保存は塀に重点が置かれていて、それぞれの家屋は現代の暮らしに合わせ建て替えられているものが多いです。街路は見事。登城の馬が通ったであろう鉄砲道路。遠方に見えるのが山城があった山。

この居宅は、地頭である入来院さんの末裔が今でも住まわれているものです。茅葺屋根の武家屋敷門が残り、格式の高さがうかがえます。棟の冠木を茅で被せるように覆ってしまう独特な葺き方です。



赤城神社

域内の氏神様と思われる赤城神社。伽藍などに意味があるのであろうが、そこまで読み込めなかったです。


増田家住宅

保存家屋として公開されている住宅。茅葺の武家屋敷の様式を整えている。しかし実際の武家屋敷ではなく、明治時代に建てられた歯科医の自宅。2棟の建物の棟が直行して連棟となっている。奥の建屋は土間で水屋や通常の生活空間。手前の建屋は来客(位の上の侍つまり殿や上司等)や主人や長男しか使えない。縁側があり高床になっている。





五右衛門風呂

清色城跡

山に分け入っていくと切通しを経て、急な階段を登り鬱蒼とした城跡に至る。原状では様々な生き物の方が強そうなので、這う這うの体で帰ってきました。





麓では、武家屋敷を改修して利用しているカフェがあり、ランチを出していました。



2015年5月27日水曜日

薩摩武家屋敷を巡る 野田郷編

野田郷

2015年5月14日から17日にかけて鹿児島に行って来ました。
滞在地は出水市野田郷上名にある、妻の母方の親戚宅。武家屋敷の門が残る家です。
但し、母屋は建替えたか更に増築などしているので武家屋敷ではありません。しかし門はきちんと武家屋敷門の様式を整えています。塀は石積みの上部に生垣を施しています。門は両側に控え柱を出して、正面の冠木と共に三方に瓦屋根を載せる高麗門の重厚な造り。門から敷地内に一気には侵入できないように直角に折れて導線を取る枡形門。城門はほぼこのような枡形を採用していますね。武家屋敷は小さいながら城の様式を取り込んでいます。乗馬したままの敵や多勢の部隊に一気に突入されないように、つまり敵の侵入にひと手間かけさせる形になっています。ここでは正面に配置した納屋の漆喰壁がその役目をしています。薩摩の武家屋敷門は、多くがこの枡形を取っています。しかし、日常生活には不便とも言えます。現在住んでいる人が、車を正面から入れたいと思ったら、突き当たりの壁なり建物なりは邪魔となります。削除してしまいますね。実際そのようにされて、門だけ残している家は多く見られました。

正面から門とその奥を望む

石積と生垣の塀が続く


薩摩への入口の街

野田郷には、島津初代から5代目までの分骨墓がある感応寺という寺があります。

http://www5.synapse.ne.jp/kanno-ji/

そして隣町出水にも薩摩三大武家屋敷群である出水麓があり、出水麓にも島津の墓があります。殊更に島津との縁を強調しているかに見えます。
この辺りは薩摩街道(現在の国道3号線)沿いの県境(藩の境)で、すぐ隣は肥後藩。外敵が侵入するのを防御する最前線として、薩摩藩にとっては戦略的にとても重要だったエリアであったと想像できます。そして、やはり重要な拠点を守る人員のモチベーションを高める意味でも、島津に大いに所縁があるぞということを見せたかったのではないでしょうか。


薩摩初代から5代までの分骨が納められている墓。一番左、奥まっているのが初代忠久。島津家紋の丸に十字は当然。



半農半侍

武家屋敷は、各々300坪程度の敷地を持ち、塀が連なる形で続いています。
薩摩武士は、明治初頭には藩人口の25%程度を占めていたそうです。他藩の武士人口はせいぜい5%程度とか。つまり、数の多い薩摩武士は農民に食わせてもらっているわけには行かず、必然的に自給自足の生活をしていたのです。そのため、各屋敷の敷地の一部に小規模な農地を持ち、そこそこの広さが必要で、屋敷内の人員たちの食い扶持のいくらかは収穫していました。この形式は侍の世から時代が移っても、生活の部分を内包していたため、そのまま住民に使われることとなり、結果として多くの武家屋敷が薩摩に生きたまま現存することになったのでしょう。それでも、各家の高齢化が進んでいて空き家も多くなっているということです。次の世代にうまく残せるようにしたいものです。