2015年12月18日金曜日

瀬戸内海に浮かぶ島で その2

いよいよ蜜柑の収穫作業です。

収穫斜面からの朝焼け

今回農作業をさせてもらうのは、下末(したすえ)農園さん。下末さんご兄弟が営まれています。大長の中でも南向きの広大な斜面を所有する農園さん。我々が収穫するのは石地(いしじ)という種類の蜜柑です。石地は酸味と甘味がバランスよく、濃い味で大きさも手ごろなとてもおいしい蜜柑です。大長蜜柑の中でも人気の作物だとか。例年11月半ばから下旬にかけて収穫する品種。下末農園ではその他に 通常の温州蜜柑、デコポン、レモンその他の品種を栽培されていて、2月頃まで収穫が続くのです。

5時起床の村


この時期まだ暗い(広島地方の日の出は6:48)5:00きっかりに、村中に聞こえるような大音量で起床を促す放送が響き渡ります。村人全員が飛び起きるにちがいありません。いやもっと早く起きている人は当然たくさんいるでしょうが。我々も起床です。合宿所で、前夜にセットして無事炊けたごはんとインスタント味噌汁とその他適宜おかずで手早く朝食。準備を整えレンタカーに乗りこみ蜜柑畑に向け出発。とにかく狭い路地のコーナーをギリギリな感じでソロソロとくねり走り出します。大長の村落に入っても軽自動車がすれ違えない、民家の軒先が連なるような細い路地を対向車が来ないことを祈りつつ抜けて進みます。途中からグングン急坂になるところを軽自動車に鞭をいれつつ、行けーと叫びながらアクセルを踏み踏み、エンジンをうならせ現場に到着。7:00作業開始です。昇ってきた遥か下界の町を見ていると朝焼けが綺麗でした。

4人を乗せて頑張った軽自動車

収穫地点に到着。蜜柑の斜面。

収穫場所は当然ながらさらなる急斜面。まじで40度以上の角度でしょうか。昇り降りや荷運びがどうなることやらと思っていましたが、凄い武器がありました。モノラックといって、小規模なモノレールです。細いレールの上をアプト式(つまり、歯車)で登坂する貨客運搬装置です。ゴルフ場で乗客用に特化したモノラックに乗られた方もいるでしょうか。素晴らしい戦力です。しかしこれほどの急勾配の乗り物は初めてですし前後ばかりでなく左右にも転げ落ちないか不安でしたが、杞憂でした。小さなガソリンエンジンで歯車をカミカミして重量物を物ともせず急登、急降します。下末さんに「さあ乗ってください。危ないから腰を落として」と言われ乗り込むとほんとに小さなエンジンがうなりをあげてスタート。グングン斜面を登り景色が見る間に変わっていくと頂上に到着。さあ作業開始です。

モノラックに乗り込んだSさんとMさん。急斜面を後ろ向きに昇ります。農作業頭巾を被ってSさんはご機嫌。防風防寒用に薄い合羽を着ます。汚れ防止にもなりますが、蜜柑の枝にやられ二日間でぼろぼろになりました。

斜面の上から。下の道からモノラックで上がってきました。

蜜柑ハサミ


蜜柑は、ぶら下がっている身をハサミで切って収穫します。蒂を残してはいけません。蔕が出ていると、箱詰めされいろんな方向を向いた蜜柑が隣の蜜柑を傷つけてしまうからです。蒂を極限まで小さくして収穫する。木から取るときに一回で蔕を小さくするように切れば良いですが、我々は慣れないので、一度切ってから蒂を整えます。それほど難しい作業ではありませんでした。今回は果実がちょうど熟した時期だったので、果実の熟成度を見極めることなく全部収穫が基本ですしたから。不作の蜜柑もほぼ無く、片っ端から取っていくという作業です。



蜜柑の木はあまり高くありません。おそらく手の届く高さに制限しているのでしょう。斜面を段々に均し、全部の木に陽が当たるように植えてあります。各段々は石垣で擁壁を作ってあります。高低差は1mくらいでしょうか。横に長い石垣をこれだけの段数積み上げるのは大変な作業だったことでしょう。下末さんのご先祖様が作られたとか。どれほどの労力がかかったのか。ご先祖様に本当に感謝していると下末さんはおっしゃっていました。但し、石垣の石は他から運んでくることはなく、掘れば出たとのことでしたが。

蜜柑の木はあまり大きくありません。一番高いところの果実も脚立を使うことなく収穫できます。斜面でのバランスをとることと、多少の木登りができれば収穫はできます。

たくさん成った蜜柑
収穫には各自大きめの籠を肩から前にぶら下げてそこに蜜柑を取っては入れ取っては入れ(そんなに丁寧じゃなくても大丈夫)していきます。籠がいっぱいになると、モノラックのところまで横移動してモノラックに積んであるコンテナーに蜜柑を移し替えていきます。人力は横移動が結構大変。蜜柑籠は蜜柑がたまると結構重い。木の枝にフックでひっかけたり、低い場所をとるときには地面に置いたりと、多少疲れを軽減するように工夫しながら収穫です。モノラックに蜜柑で満たされたコンテナーがいっぱいになったら、下末さんが道路まで運転して降ろしてくれます。これをひたすら繰り返す。ラジオでNHKなどを流しながらの農作業は良いです。ちょうど気候も良く、動いてもそれほど汗をかくわけじゃなし。これが、冬になると蜜柑が氷のように冷たくなって辛いとか。それは厳しそうです。

軽トラックにいっぱい取れました。午前中の作業での収穫。頑張ったー。
収穫はやはり楽しいです。農業の楽しさは自分の働きが目に見えて良いです。
10時や3時の休憩では水分補給のために剥いて蜜柑をいただきます。甘くておいしい。いくつも食べられます。また昼食には持参したお握りを食べ、頑張って16:00までの作業です。

柑橘系の植物は、全てカラタチの木に接ぎ木をして作るとか。カラタチは鋭い棘を持った恐ろしい木ですね。蜜柑に変身した木は、ほとんど棘はありませんでしたが、なんとなく棘の気配はありました。

かつて、蜜柑はとても高価に売れたらしいです。昔は石炭を入れる木箱に蜜柑を入れて山から降ろしたのですが、蜜柑は石炭と同じ単価で売れたとか。ですから大長の路地に並んでいた蜜柑農家のお家はどれも立派で、みなさん裕福な生活をされていたそうです。しかし、モノラックも車も無い時代、その石炭箱を担いでひたすら山を往復したのでしょう。箱を3箱担げないと男じゃないと言われたと。女性でも蜜柑収穫の籠を6籠も担いで斜面を横移動したりと凄い体力をお持ちだったのですね。小生は危ないから2籠担いで横移動してました。
現代では蜜柑は安くなってしまいました。スーパーなどでの単価を見ると安くてありがたいですが、ちょっと悲しいですね。各農家の方々はやはり事業承継に悩まれていて、下末農園も現状では後継ぎがいないそうです。



こうして、我々の2日間の作業は短くも終了しました。3日目は午前の作業予定でしたが、前夜に雨が降り、そうすると斜面での作業はできないので中止になりました。
下末さんお世話になりありがとうございました。

2015年12月16日水曜日

瀬戸内海に浮かぶ島で その1

2015年11月21日から24日までの短い期間ですが、広島県呉市豊町に蜜柑収穫作業の手伝いに行って来ました。今回の旅の道連れは、小生の元会社同僚のMさん(女性)、Mさんのお友達Sさん(女性)、そしてMさんが海外ボランティアで一緒に作業をしたご縁のGさん(男性、大阪在住)というカルテット。果たして都会生活者は効率よく農作業をこなせることができるのでしょうか。

大崎下島

豊町は、大崎下島にあります。大崎下島は、広島県と愛媛県に挟まれた瀬戸内海に浮かぶ島です。広島空港でレンタカーをピックアップして山陽自動車道を軽く走ると呉です。そこから橋を渡って、下蒲刈島、上蒲刈島、豊島を経て4つ目の島が大崎下島。ここまで広島県であり、県境の島。この次に連なる岡村島は愛媛県に所属しています。地図で見ると呉と今治の中間地点に見えます。文化圏的にはラジオ放送などは愛媛の電波がよく入るし、島の人は瀬戸内海文化の中で暮らしているのであまり広島県への帰属意識は無いようでした。行政に係る地方公務員の方々は別として。

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あまり土地勘が働かない方のも多いでしょうから、地図を徐々に拡大していきます。Mapionさんの地図を借りました。Mapionさんありがとうございます。
瀬戸内海西方の観光地としては、尾道から今治を結ぶしまなみ海道が有名ですね。素晴らしい道です。しかし、今回通った呉から大崎下島に至るルートも安芸灘とびしま海道といって素晴らしい景観の道路でした。インフラにはとてもお金がかかっています。

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道連れのMさんは、母方の御祖父様が呉から一つ目の「下蒲刈島」のご出身で、幼少期に何度も島を訪れていたそうです。いわばMさんの故郷的なところで、今回の仕事もMさんが見つけて誘ってくれたのです。島に至るには安芸灘大橋という素晴らしい橋を渡っていきます。http://www.hprc.or.jp/akinada.html

安芸灘大橋の写真
安芸灘大橋(広島県道路公社の写真を借りました)

道の駅から 
波はなく遥かかなたの島影を楽しめる。



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大崎下島まで、快適なドライブを経て、島の東側に至りました。大長(おおちょう)というところです。海を挟んだ目の前は岡村島です。地図では旧関前村となっていますね。島と島とに囲われ、小さな無人島も浮かぶとても静かな湾が広がります。そこからそびえる山の南斜面が、蜜柑の収穫農地でした。大長蜜柑は関西や中国地方では有名な銘柄だとか。

世界大百科事典内の大長ミカンの言及 【大崎下島】より …東に愛媛県の岡村島があり,大崎下島もかつては伊予に属し大長(おおちよう)島と呼ばれた。島全体が急峻な山地であるが山頂まで段畑として耕され,温暖少雨の典型的な瀬戸内式気候によって良質美味の大長ミカンを産する。南東部の御手洗(みたらい)港は帆船時代から内海航路の要所であったが,明治以降は入港する船もなく,史跡から往時の繁栄がしのばれるのみである。…


呉のスーパーにて。逆さまに積んでありました。。
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緑のやじるしの場所が大長です。そのまま島を南へ半島を巡っていくと「御手洗」という港町があり、面白い街並みが残っていたのでした。

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御手洗の港から、岡村島に至る橋を眺める。反対側の水平線にはしまなみ海道の来島海峡大橋が長大な姿を見せていました。

瀬戸内海

瀬戸内海は碧く、あくまで穏やかで、鏡のような海面が続きます。晴れ渡り遥か遠くの水平線まで島影が重なりあい、遠景がほんとうに美しいです。他のどんな海とも違います。今回始めてその独特な美しさを認識しました。Mさんは、「この風景が私の思う海だ」と言っていましたが、うらやましいことです。湘南や千葉など外洋に面した海岸は常に波が打ち寄せ、穏やかな日和でもそれが絶えることはありません。ところが風のないときには瀬戸内海には波は立たないのです。
しかし、穏やかな水面の下には急流が渦巻いています。潮の満ち引きの干満差が3m以上。その潮の移動が島で狭くなった海峡に押し寄せるのです。1日に2回ずつ東西へ強い流れがあります。まさしく瀬戸です。上の地図でわかるように、広島と愛媛の間は特に島数が多く、その分瀬戸は急です。そして数多くの岩礁。瀬戸内海は波は無いけれど海流が強い海の難所が連なる海道なのです。

大崎下島のヒルトップから

待てば海路の日和あり


風待ち汐待ちという言葉をご存知でしょうか。日本の船はペルー来航後鋼製の船が建造されるようになるまで、ほぼ木造の帆船でした。更にその昔は、手漕ぎ船。手漕ぎ船は潮流が2ノット(時速3.8km)を超えると前に進めません。帆船も風が無ければびくとも進みません。一方で瀬戸内海の主な瀬戸の潮流は海上保安庁の資料によると、関門海峡で9.4ノット(17.4km)来島海峡で10.3ノット(19.1km)にもなるようです。とても進めないですね。木造帆船を進めるには、座礁しない海路を読む能力と、風潮を読む能力と、操舵技術が必要です。そして、自然の力が巡ってくるのを安全に待つ港も不可欠でありました。瀬戸内海が大阪と九州を結ぶ400kmにも及ぶ海道とし栄えていたのは、水路を開き、つまり水中の障害物を除き航路を開き、おおむね20㎞程度毎に停泊港を水の補給地を兼ねて整備したからこそです。船は大阪から九州まで一気に進めるものではなく、各停泊港で風待ち汐待ちを繰り返し海路をつないでいったのです。

御手洗


御手洗は島に挟まれた穏やかな湾で風待ち汐待ちの為の港町として栄えたのでした。瀬戸内海を船で旅するものは、必ずと言ってよいくらい停泊する港。参勤交代をする大名行列も例外ではありません。島に停泊し上陸した乗船客は、旅先で航路が適切な状況になるのを待つ以外にすることがありません。従って、街は旅人たちの情報交換と遊行をするための歓楽街として発展を遂げました。茶屋や置屋が軒を連ね、花魁が数多くいたのです。彼女たちのレベルは高く。吉原京都に次ぐ教養の高さだったとも記されていましたが、それだけ様々な文化を持った旅人が集ったところだったのでしょう。幕末の志士達も土佐、長州、広島藩の錯綜するこの地を情報交換や談判する地として使い、更には船団の集合場所として利用したのでした。


時代はくだり、内燃機関のエンジンを備えた鋼鉄船の時代になると、一晩で大阪から九州まで途中停泊無しで一気に走れるようになったので、このような港の役割は突然無くなりました。街が突然のように必要なくなってしまったのです。次の使い道もない建物が解体されることもなく、がらんどうになった街並みがタイムカプセルに入れられたように残ってしまったというわけです。近年になり、タイムカプセルを開けたのか、残っていた街並みを生かそうと気づいた自治体が整備を始め、また観光資源として生かそうという志ある若者がポツポツと増えてきました。更には素晴らしい景観を楽しむため、海道を自転車で巡るライダーも訪れるようになってきて、少しずつ人が訪れるようになった街が現在の御手洗でした。

港に面した道路沿いに建つ船宿に少し手を入れて、カフェに。壁の意匠など凝った造りです。

茶屋が軒を連ねる街並み。三味線の音や嬌声が聞こえてきそうです。旅人にとっては目もくらむような歓楽街だったのではないでしょうか。

街の入口に立派な構えの茶屋。路地がくねっていて人だまりができ、期待感をうまく高める景観ができています。

この茶屋も漆喰壁が見事な大店です。凛とした屋根瓦も誇らしげ。

壁の意匠にもお金がかかっています。


中の様子が外から窺えるような細かい格子戸になっているのは茶屋の決まりです。

玄関の欄間に見事な鯉の意匠が施されています。

路地裏の魅力的。


昭和の洋館と懐かしい郵便ポスト

昭和初期に建てられた演芸場

港の脇に瓦屋根がひしめいています。

神社の鳥居が見えますが、城址です。交通の要所ですから制海権を取るための重要な軍事拠点であったことは間違いありません。

高い石垣のすぐそばまで民家が迫ります。石垣の材料調達と工事の困難さを思うと多くの資金が投じられたことが解ります。

天満宮 背後に山を背負っています。

海沿いには海運の神を祀る住吉神社
中村春吉碑 日本初の自転車による世界一周旅行者だとか。御手洗の出身者。かなりマニアックな碑ですが、近年の自転車愛好家の碑参りを兼ねたツーリング需要増加に一役買っています。

新光時計店


NHKのドキュメンタリー プロフェッショナル「仕事の流儀」に取り上げられた時計職人松浦敬一さんの営む「新光時計店」がこの街にありました。失礼ながらこのような孤島の田舎町の時計屋さんに日本中から時計修理の依頼が舞い込むということは驚きです。建物は大正時代のものを大事に使っているとか。ちょうどお店の日よけを掛けたところをお見かけしたのでご挨拶したら、気さくにお話ししていただけました。もともと米問屋だった家業を、150年前から街の衰退を見越して時計修理業に業務転換し全国に営業を回ったりして一途に商売をされている。時代の変化に向き合わず不満ばかり言っていてもだめだな、と示唆深いお話を聞けました。ちなみにご子息が事業承継して家業を継いでいくことになったそうです。
新光時計のHP


NHKだけではなく、様々なメディアに取り上げられています。記事などが丁寧に整理されていました。店の中にはお宝のような時計がたくさん並んでいました。松浦さんは窓際の明るい作業台で仕事をされています。


今回の合宿所


街の廃校を利用した「ふるさと学園」に宿泊しました。給食室で当時の食器を使い自炊。お風呂は家庭用を少し大きくしたもの。教室を改装して2段ベッドが作り付けてあり、最大40人泊まれるとか。4人ではゆったり過ぎてさみしい感じ。夕食は外食。スーパーで購入した新米を炊飯器で炊いて、朝ごはん、さらには農作業時の昼食用にお握りを作り、もりもり食べました。


少々傷んでいますが、大丈夫です。

山頂への登山道の開始地点にあります。夜はイノシシが徘徊することもあるとか。
御手洗の紹介は以上です。次回は蜜柑収穫作業についてです。












2015年5月28日木曜日

薩摩武家屋敷を巡る 薩摩川内編

清色城跡と入来麓

次なる武家屋敷は薩摩川内市の市街から山あいに入り込んだ、入来麓です。
三大薩摩武家屋敷のうちの一か所という言い方をすることもあるようです。
ここは、出水とはだいぶ趣が違い、山城を護る為の城壁街と言えます。
山城は清色城といいその主は、相模国から鎌倉時代に功績を挙げ褒美としてこの地を与えられ、下向した(失礼な言い方にはなりますが、歴史的にはそのように言われています)渋谷氏で、この地に移って入来院氏を名乗っています。
薩摩武家屋敷とはいっても、どう見ても島津を護る構えでは無く、むしろ薩摩藩内の国人(豪族)として島津やその他の豪族と闘い、時代によって島津の家来になったりまた争ったりという独特の歴史があると思われます。

緑色に示している険しい山の中に山城が点在していました。麓を湾曲して流れる樋脇川を天然の堀と見立て、平地に武家屋敷並びに農地の街区を整備して家来たちを住まわせたのでしょう。城の主を死守する配置ですね。
馬場から登城していく階段。ここは、城から降りてきて馬場での訓練などを睥睨した場所と思われます。階段の上は現在「入来小学校」になっています。こんな学校に通ったら、故郷を愛する人間が育つことでしょう。
右側が馬場の跡地です。薩摩馬が疾走していたことでしょう。
左側は樋脇川から人工的に引き込んだ堀で、船着場の跡があります。
塀を構成する石垣は玉石を組み上げています。馬が通ったであろう街路も湾曲しています。山城に向けて坂道にもなっていて、独特の街区構成。

この武家屋敷群の保存は塀に重点が置かれていて、それぞれの家屋は現代の暮らしに合わせ建て替えられているものが多いです。街路は見事。登城の馬が通ったであろう鉄砲道路。遠方に見えるのが山城があった山。

この居宅は、地頭である入来院さんの末裔が今でも住まわれているものです。茅葺屋根の武家屋敷門が残り、格式の高さがうかがえます。棟の冠木を茅で被せるように覆ってしまう独特な葺き方です。



赤城神社

域内の氏神様と思われる赤城神社。伽藍などに意味があるのであろうが、そこまで読み込めなかったです。


増田家住宅

保存家屋として公開されている住宅。茅葺の武家屋敷の様式を整えている。しかし実際の武家屋敷ではなく、明治時代に建てられた歯科医の自宅。2棟の建物の棟が直行して連棟となっている。奥の建屋は土間で水屋や通常の生活空間。手前の建屋は来客(位の上の侍つまり殿や上司等)や主人や長男しか使えない。縁側があり高床になっている。





五右衛門風呂

清色城跡

山に分け入っていくと切通しを経て、急な階段を登り鬱蒼とした城跡に至る。原状では様々な生き物の方が強そうなので、這う這うの体で帰ってきました。





麓では、武家屋敷を改修して利用しているカフェがあり、ランチを出していました。